縄文人の本棚
縄文人おすすめの本

縄文時代って何?という人も、 どう考えても私とは関係ないみたい。という人も、
縄文時代の何かを読み解く、縄文人おすすめの本の紹介です。

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土偶・コスモス
MIHO MUSEUM

この本は、図鑑でも縄文の解説書でもありません。2012年に滋賀県の「MIHO美術館」で開催された『土偶・コスモス展』の図録です。
総数320点、国宝土偶3点、重要文化財21点。日本中のスター土偶たちが一同に会したこの展示会は、土偶の展示としてはひじょうに規模の大きいものでした。そして滋賀の奥地にあるMIHO美術館のアクセスの悪さもこの規模の展示としては異例のことでした。
この図録ですが、ただの展示会図録と甘く見てはいけません。なにしろしっかりお金がかかっています。写真家の藤森武氏の写真はしっとりとした質感の表現と、けっして黒すぎてつぶれてはいないのですが深い陰影が立体的に土偶を捉えています。さらには用紙、印刷、デザインともにクオリティが高く、本書をぼんやりと眺めているだけで楽しいのですが、巻末の「数字で見る土偶」「土偶の世界」という特集は展示会の図録の範疇を越えて読み物としてしっかり読み応えがありました。そもそも縄文好きの人にはおなじみの土偶ばかりではありますが、写真が良いので飽きませんよ!(M)

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暇と退屈の倫理学
増補新版
國分 功一郎

人はなぜ暇と退屈を感じるのだろう? という根源的な問いを哲学者の國分功一郎さんが考察した哲学の書。人はけっして耐えることの出来ない暇と退屈をどうやってやり過ごしてきたのかという問いを、読みやすく平坦な文章で綴り、古今東西の哲学者や思想家の言葉を引用し、時に反論し、暇の真実に迫っていく。
それがなぜ縄文?とお思いになるかもしれませんが、『暇倫』の第2章から簡単に説明すると、定住前の人類が常に移り変わる新しい環境に慣れるために使っていた能力は定住を始めたことによって使用されなくなり、人の能力に「余裕」ができてしまった。だから僕らは「暇と退屈」を感じるということだ。そして日本における本格的な定住の始まりは縄文時代だ。ということは僕たちが初めて「暇と退屈」を感じたのは縄文時代ということになる。
暇と退屈をやりすごすために人類は文明を発達させてきた。むしろ暇と退屈があったからこそ人類は人類たりえる文明と思考を獲得したといえるだろう。(M)

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静かな大地
池澤夏樹

淡路から北海道静内に開拓民として入植した幼い兄弟と先住民のアイヌとの触れあいを描いた小説。小説と言っても、モデルが存在し(幼い兄弟が池澤さんの母方の曾祖父とその兄)、限りなくノンフィクションに近い。
和人により追いつめられていくアイヌ、アイヌとともに生きるために周りから白い目で見られながらも奮闘する主人公の三郎。しかし、アイヌにとってすでに世界は下り坂の時代となり、最初から最後までどこを切っても悲しい滅びの予感しかしない。この小説を読むと、日本人が自分たちの美徳と思ってはばからない謙虚さや礼義正しさは、本来はアイヌのものだったんじゃないかとさえ思う。三郎は言う「和人がアイヌの知恵を求める時が来るだろう。神と人と大地の調和の意味を覚る日が来るだろう」その言葉の意味を本当に理解できる日が私たちにくるのだろうか。
縄文時代を読み解くにはアイヌを考えなければなりません。まずはアイヌについて少しの理解のために読んでおくべき小説です。
ここまで書いて、この小説、重そうでとっつきにくそうだなと思われたかもしれませんが、池澤夏樹さんの簡潔で美しい文章と、アイヌの文化、それ自体の興味深さでぐいぐい読ませられます。誰が読んでも「面白い」小説です。(M)

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火を熾す
ジャックロンドン

カリスマ的なホーボーで『野生の叫び声』や『白い牙』で有名なアメリカの小説家ジャックロンドンの短編。もちろん舞台設定や時代は縄文とは関係がない小説だ。
「自然の中の生」ロンドンの言いたかったことはこういうことかもしれない。
この小説の登場人物は2人、いや、1人の男と犬1匹だ。あらすじを言ってしまうと、(あらすじを読んでしまったとしてもこの小説の価値は1gたりとも損なわれないと思いますが、知りたくない人は読まないでください)氷点下80度の雪の中、火を熾せなければ生きていけない状態で、男は火を熾そうともがく、不運が重なり男は火を熾せずに、生への執着をすこしづつ削りながらあたりまえのように凍えて死ぬ。犬は何かしらの暖をとれると男についてきたが、男が動かなくなり、その場を立ち去る。これだけの話だ。
縄文時代はいまより暖かかったことから考えると氷点下80度は考えられないかも知れないが、自分自身よりも大きな存在としての自然には従わなければならないことは変わらないだろう。そしてもし、自分を取り巻く自然が自分自身の死を要求したなら、それを受け入れなければならないだろう。この小説を読むと、そんなことを思い浮かべてしまう。立ち去る犬も、やはりその自然の一部なのだろう。
僕の知っているだけでも村上春樹とレイモンドカーヴァーが、自身の小説の中でこの短編『火を熾す』を登場人物に語らせているシーンがある。それだけ印象に残って頭から離れない小説なのだろう。

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借りの哲学
ナタリー・サルトゥー=ラジュ

著者は貨幣経済のアンチテーゼとして「借り」を定義している。等価交換ではない「借り」。返さなくてもよいものとしての「借り」。誰もが背負い逃れられない「借り」。
貨幣経済は等価交換だ。その都度、モノと同価値の貨幣で取引は精算される。合理的で後腐れの無いこのシステムこそが、現代社会の閉塞感を生んでいるとこの本では問題提起している。
一方「借り」の社会ではどうだろうか。等価で交換できない贈与交換や貸し借りは次回を生み、人間関係を生む。親から受け継いだ返す必要の無い貸しを自分の子に返すように「貸し」が循環する。この本では「借り」を驚くほど肯定的に捉え、貨幣経済を捨て、「貸し借り」の社会に回帰すべきだと締めている。
貨幣経済を捨てることは現実的では無いと思うかも知れない、内包する不公平感をどうするんだ!、と怒る人もいるかも知れない。しかし、縄文時代はお金というものが存在しなかった社会だ。お金が介在しなくても人は交流し、モノは流通する。現代社会に生きる僕たちには少しばかり想像するのが難しいことかもしれないが、縄文時代はそれで1万年やってきたのだ。
貨幣経済ではない社会とはいったいどういうことなのか、そのことを考察することも縄文時代を理解するためには必要なことかもしれません。(M)

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青森縄文王国
新潮社編

縄文時代の遺物を美術品のように見ることは間違えではない。その造形や装飾にはえもしれない魅力を感じることは少なくない。しかし、そのもの自体はそもそも観賞用ではなく、普段使いの民芸品だったかもしれない。
だからモノにはストーリーが必要だ。それがある時代の遺物であったり資料であったりしたらほとんどストーリーが全てと言ってもいい。
この本では、縄のあとのない無文土器から土偶、漆製品と縄文そのもののストーリーとともに、いくつかのモノのストーリーを丁寧に解説している。そのモノの裏側にあるストーリーはそのまま当時の縄文人の物語でもある。

青森県は一時期、縄文の中心地だった。ということはその出土品の質と量からみてもあきらかで、縄文時代を読み解く時にも最も欠かせない場所だ。そのことを考えると、この本に収蔵されている土器や土偶や様々な出土品はけっして多くは無い。むしろ印象としては少ないように感じられる。もちろん圧倒的な縄文のモノをページを狭しと展開してもこの本は成立したんだとおもう。それでもモノのストーリーにこだわった『青森縄文王国』はモノを見る喜びと想像する楽しみに満ち溢れた本でした。

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縄文人追跡
小林達雄

縄文と言って最初にぱっと思い浮かべる考古学者は小林達雄さんだ。火焔土器の出土元でもある新潟県長岡市出身で國學院大學文学部名誉教授、新潟県立歴史博物館名誉館長でもある。
それほど多くの著作があるわけではないが、氏の著作の中で一番にお勧めしたいのが「縄文人追跡」だ。この本に書かれていることは難しい学術的な発表ではない。ひとつひとつの項目に対する短いエッセイのような考察は、初めて縄文に触れる人にとってもそうでない人にとっても新鮮な気づきがある。
縄文人の虫歯から指紋、結婚、アクセサリー。それから縄文研究の歴史。小林さんは膨大な研究結果と周辺の資料をバックグラウンドにしながら、それを少しだけ披露しながら、親しい友達のことを語るように縄文人のことを教えてくれる。ひとつひとつジグソーパズルをはめていくように、縄文人を目の前に可視化していくその語り口こそが縄文時代を楽しむひとつのヒントなのではないかと私は思う。

個人的にはアイヌ、コロボックルなどの日本人のルーツ論争が大変興味深かったです。

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精霊の守り人
上橋菜穂子

この面白い小説は児童向けに書かれたファンタジー小説だ。しかしファンの年齢層は子供だけでなくたいへん幅広い。ここからシリーズ化し、全10冊となるこのシリーズに夢中になるのはむしろ大人のほうが多いかもしれない。
この小説の舞台は架空の国、新ヨゴ皇国。この土地はかつてヤクーという民族が住んでいたが、今はヨゴ人の国となっている。主人公である女用心棒のバルサはあることから新ヨゴ皇国の第二皇太子を守ることになる。ヨゴ人のもつ神話と、ヤクー人の呪術や知恵がぶつかり合い、最後には力を合わせて事に対処するというお話だけど…。
ヨゴ人とヤクー人の関係はかなりの部分で弥生と縄文の関係に似ている。これは気のせいではなくて著者の上橋さんは文化人類学者でもあり、専門はアボリジニではあるけど過去に『月の森に、カミよ眠れ』という大和朝廷とその支配下におかれた「隼人」のお話も書いている。
ファンタジー小説の形をとっているけど、狩猟採取し山の知恵とともに暮らすヤクー人の風俗や考え方はもしかしたら縄文人のそれに近いのかもしれない。

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ヤノマミ
国分 拓

ブラジルの奥地、アマゾン。そのアマゾンの先住民族の一つヤノマミ族に密着取材という名の150日の共同生活をNHKのディレクターが書き下ろした本。
もちろんNHKで番組にもなっている。放送当時はかなり話題にもなった。
一口に狩猟採取民と言っても千差万物だ。ある一つの民族を見て縄文時代と重ね合わせることは必ずしも正確ではないことは百も承知で、それでいて少しだけ縄文に重ね合わせてこの本を読んだ。
この本はある種の観察日誌とも言える。彼らの生態や風俗、恋愛観や宗教観。一つ一つを現代の日本人の目で、時に驚き、時に恐怖し、綴っている。
その中でも最も衝撃を受けたのはやはりこのことだ。新生児の生殺与奪権はそれを産んだ母親に委ねられているという風習には、怒りと悲しみと驚きが混ざり合い、本を読みながらその場から逃げ出したくなった。人間として生きることのできなかった新生児はシロアリの餌となり、そのシロアリの巣を彼らは燃やす。これを外から批判することは間違えなのかどうなのかさえ、一読者としては判断がつかなかった。ただ言えるのは現代の日本の基準が通用しない場所があるということだけは理解することができる。
文章は硬く、とっつきはよくないけど読みやすい。ジャングルの暗い森の中によく似合っている。

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日本その日その日
エドワード・シルヴェスター・モース

言わずと知れた日本考古学の祖とも言われるエドワード・モースの日本旅行記だ。
もちろん大森貝塚の発見時や発掘時の記述はあるが、残念ながら全体の数パーセントほどだ。
もしかしたらあまり知られていないことかもしれないけど、モースは絵が上手い。この旅行記の特徴はモースによるスケッチが豊富だということだ。文庫版はだいぶ減らされていて、こちらも残念ではあるのだけどそれでもかなりの数だ。
モースは当時の日本を若干の上から目線ではあっても、ずいぶんと優しい目で、好意を持ってながめ、新鮮に驚いている。違う文化をのぞく時に重要なのは、どれだけその文化を好きになれるかだ。この本はそのことがよく分かる。

この本に収録されているわけではないけれど、モースによる大森貝塚の出土品の石版画は大変美しい。そのままポスターにして部屋に飾りたいほどだ。